***心模様***

後期高齢者になった両親の老々介護・それを支えていくこどもたちのお話が主です。スピンオフとして私の趣味の写真などを載せていきます。

【Another Story】(幼稚)園活、しましたよ。

子育てをしている時にどうしても母に来てほしかった時がある。それは幼稚園入園に際することだった。一応打診したのだが、うつ状態だったので無理だと判断した。夫の協力なくしてできなかったことなので記しておこう。

携帯を主婦が持っていなかった時代だから、家電が全てだった。今ならLINEでできるのに(笑)

子供が通った幼稚園は募集定員が100人だった。そのうちいわゆるきょうだい枠が半数近くあるということで、第一子のサークル友達や公園友達は戦々恐々としていた。これは子供の年で、翌年の第一子枠は更に少なかったと聞いている)

家からは近い。願書は余分に配っても10通らしい。これは転勤も加味してのことだったのだろう。何にしても願書を貰えなければ入れない。前日の公園で、子供たちは元気に・母たちはやや重い顔で相談をし、サークルではない仲良しのママに電話番号を聞いて順番を決めて連絡を取ることにした。

 

予定では朝6時半に並べばいいということだったのだが、たまたまゴルフに行くお父さんが回り道をして幼稚園を見に行ったらしい。「うちのパパが中で待ってるって言ってるからもう出たほうがいいよ!」連絡は6時過ぎ。当然私は化けている場合ではなく、先に起きてスタンバイしていた夫に「私は次の人に連絡をするから先に出て!」と叫び、幼稚園まで行って貰った。

ママたちと夫は世間話もするような関係(公園に連れて行ってくれたので親しい)だったので、「◎パパ、お休み取ったんですか?」「ううん。10時から仕事にして貰った」など話していたらしい。

実はこの日と願書提出の日。我が家以外のおうちはおばあちゃんが子供を見に来ていた。中には乳児が第二子というお母さんもいるので、それが普通だったのかもしれない。流石に朝6時半に子供を同伴している親はいなかったそうだ。

 

願書の配布は9時からだったので、子供はすでに7時前に起きていたから「お父さんと交代に行こうか?」「うん!」8時に2人で幼稚園に向かい、夫と交代した。その時のことを、入園して2年間同じクラスだったお子さんのお母さんが後で教えてくれた。夫は舞い上がっていて気づかなかったそうだが、夫の会社に一時いた方が同じ場所にいて、「声をかけていいものか…迷ったわよ」と。その方もおばあちゃんに来てもらって遠くから駆けつけて願書を待っていたそうだ。

7時を持って配布定員が切れた。無事にサークル・公園仲間全員が願書を頂いて、子供は遊びたそうな顔をして園庭にいる1つ上のお子さんを見ている。周りのお母さんが「今日は雨だから、お買い物に皆で行こうか?」と声をかけてくれて、泥だらけは回避できた(-"-;A ...アセアセ

 

願書提出の日はもう少し遅かったのだが、やはり並んだように思う。その日もおばあちゃんが来ていた子が殆どだったが、うちはあくまでも時差出勤で願書受付をしてから面接と制服の採寸があった。

ホッとした~~~~~~~~~!

 

幼児サークルでは3年保育の子が先に辞めていく。夫が通わせたい幼稚園として選んだのがこちらで、授業料が少し高いので、賃貸に住んでいたが、金利が安かったので幼稚園に近い物件を買い、ローン生活になった。それでも家賃よりローンが安かった頃の話。夫は子供と遊ぶ時間を長くしたいので2年でいいと決めていたそうだ。

 

願書を貰う年の7月に、サークルを終えてからぞろぞろと幼稚園見学に親子で行った。園では歓待してくれて、上の子が通っていたお母さんは話が盛り上がっている。遊具だらけの天国に来た子供たちはもう、手の付けようがないほど遊びに夢中になっている。引きはがす方が大変だったが、インパクトはつけておいた方がいいらしい。その後、園の運動会に参加して、願書配布の日を待ったわけだ。

 

実際入園して、子供が楽しそうにしているのを見ながら(送迎はバスではなく徒歩)1つ上のお子さんのお母さんがこんなことを言っていたのが印象的だった。

「ここでママ友ができる人もいるし、できない人もいる。自分の友達を探すんじゃないのよ。子供が自分の友達を探し、時には喧嘩をして、育っていく場所だから、割り切る方がいいよ」と。

そう考えると、入園前の時からその準備は始まっていたということなんだ。子供が生き生きとする場所を探したら(うちは本人からの友達が行くというノリが強かったが)少し親が離れなきゃいけないんだ。

確かに子供は後追いもせず、むしろさっさと帰れ的な顔でいたので、「サラリーマンのような幼児だ」と、感服していた。

 

幼稚園から中学まで一緒のお子さんはかなりの数いるのだが、現状としては中学の部活の友達のママたちと、高校1年生の同期の仲間のママくらいかな。親としての交誼があるのは。それもイベントの時だけだし…今は皆、仕事をしたりして会うこともないけれど、園で得たのは実は同い年の親御さんよりも1歳上のお母さんとの今でもある立ち話の時間だろうか。

 

色々なお付き合いがある。乗るも乗らないもその人の自由。無理して集まりに行くことはない。

そう開き直れたのはこの時だった。

 

 

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担ぎ込まれた病院に幼稚園のクラスメイトがお母さんといた。高級メロン頭で。しかも子供と2年間、喧嘩をしつつも仲が良かった子だ。

その方こそ、夫を知っている方で、体調がものすごく悪そうに見えた(実際悪い)私にこう言ってくれた。

「預かろうか?」

「多分ね…夜遅くなるからいいよ」

その翌日、高級メロン頭の同級生も病院に来ていた。隣の科だったのだが、「お子さん、見ててあげるから点滴をしてきて」と、お昼まで買ってくれて長い待ち時間を過ごしてくれた。

病気で辛いことよりも、うれし涙が出てきた。

その年、子供がどうしても行きたいというので運動会に連れて行くと、その親子も来ていた。

引っ越しすることが決まっていたので、最後の幼稚園の運動会観戦だったそうだ。

 

離れた場所から「元気になった?」と口が動いている。私は〇と手をあげた。

幼稚園をここにしてよかったと思えた瞬間は、卒園後に現れたという不思議なお話。

 

 

 

「あなたに電話をしても話ができない」

母、ちょっと心が落ち気味で、持参したとらやの羊羹を「何だか血糖値が高いらしいのよね」と言ってそのまま包みに入れた。父が見せた検査結果は血糖が少し高いけれどHbA1cは正常値。

「喉が渇く」と(また)内科の医師に訴えると「糖尿かもしれない」と言われたとか。今月、年に2回の採血をしてきたらしい。

この先生、いい加減、母のことを理解してくれないかなと思う。春先にあった出来事、どう思っているんだろう?

 

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父は薬を増やそうとすると頑として「食事を見直します」と言い切ってくれる。服薬の多さでおかしくなったのは、母の肝機能・腎機能が老化で低下しているのに出しすぎたということなんだけど?

また耳鼻科で「鼻水が塩辛い」と言ったら、大学病院に紹介しようかと言われたことで父が不信感を少し持っていることも分かった。

口腔粘膜が敏感なんじゃないかな。それは心模様が荒れてくると、最初に出るのは口腔に関する不定愁訴からだったから感じること。唾液をティッシュに吐くのが母が心を病んだ頃からの常態になっている。それで胃が痛いと訴えたので、父と私で「唾液は消化液だから飲み込んでいい」と、ケアマネさんがいるところで話すが「気持ち悪い」のだそうだ。

 

口腔内が乾燥しているわけではないのにマスクをして寝る夫婦。分からぬことばかり。これも老いのひとつなのだろうか?商売柄色々な方を見ているけれど、母のような訴えをする方も高齢者だとたまにおられる。何がその人に重要かは分かっているし、ご本人も同じだ。

話し相手が欲しい。色々な声を聞きたい。

それをしなくてはいけないのは家族だ。市内通話で話せる娘とは私のこと。仕事に行けば帰りが遅く、午前中は出勤時間を見ながら電話を切るタイミングを計り、それを母は察知する。何よりも話したいのは夫である父に対する不満や心配やらであって、父には聞かれたくないから、私が仕事から帰ってきて電話をすると叱られると思っている。

 

幽閉された自宅での生活ではあるが、デイサービスを増やす気持ちにはなっていない。

日常生活の中で子供たちと過ごす時間が欲しいという希望を叶えてくれ=もう少し訪問してくれということだ。

ちょうどその話をしている時に子供からLINEが来た。「そろそろ行こうかなあ」おばあちゃんが調子が良くないと私が打った返信。

そういえば母がこんなことを言っていたっけ。「大学が終わったらそれほど働く必要はないでしょう?」それは違うよとは言えない。それこそ電話を切られるだろう。

 

団塊の世代が75歳になる2025年問題を踏まえ、高齢者よりは未来への投資と謳っている今。介護・自分の身体・子育て・仕事…家を振り返る余裕もなく、買い物だってそうそう行けない状態で、自分の老後は自分で始末しろという世情を考えただけで頭が痛くなってくる。

バブル期の貯金は皆、使い果たした。この先、夫の仕事も私の仕事もどうなるかは不透明。

されど両親がいて私がいる。そう夫がいつも諭してくれる。「できることはしてあげよう」と、何度も繰り返す。

 

選挙がある。政策はざっと聞いた。その上でひとつだけ言いたい。

誰もが生まれてきてよかったと思える日本にして欲しい。

 

ケアマネさんが私の様子を見て、時間のある時に顔を出してくださるそうだ。

感謝に堪えない。彼女も同世代。色々大変だろうと逆に察してしまう。

80歳からできること。

父が母のデイサービスを何としても週に1日にしたい理由は恐らく、病院へ行くことを理由にして、母に納得させているのだろう。母がデイサービスから帰ってきて「何してた?」と聞く時や、私が実家に出向くときはいつも、玄関をくぐって近いリビングに横になって大音量のTVが迎えてくれる。

いつも…思えば私が幼い時からこんな感じだった。左耳が聞こえないので音量が大きいのは子供ながらに分かっていたが、悪循環になってしまう。

聞いて欲しいから大声でいう→父は相手が怒っていると勘違いする→私たちが叱られる。

変な構図が出来上がり、それは歳をそれぞれに重ねていくほどにレベルアップしてきた。

また、言ったことを忘れるので、下もそうなのだが文書を残すことにした。その文書をなくされたらもうお手上げなのだが、何度も何度も手紙や葉書を送って周知して貰っている。

 

このように頑固で耳が遠い人が、これから自分だけで何かできるかという問いを投げかけてきた。

元々やっていたゲートボールに戻る気はないので、新規に探すかというには体力もないだろう。

そこで父が出してきたものは…写真を撮ることだった。

 

 

 

これよりずっと古いものだが、父はデジタル一眼レフを持っている。その昔は旅行に行くと親戚や母を撮り、風景もまた然り。孫が泊まりに行けばやたらと撮っていた。その代わりWebで公開することは全く考えていない(PCはあるがネットは引いていない)ので、プリントアウトして配って楽しむだけだ。

 

歩きながら四季を撮るのはいいけれど、そこに母を同行するのは無理だ。歩調が違うし、私も写真を趣味としているので、友達と行ってもあちらとこちらに分かれている。一度、夫にコンデジを持たせて歩いたことがあったが、「これは何?」「〇〇(花の名前)だけど…うるさいっ!」一応私の骨折ギブス&松葉杖外したよ♡のリハビリに付き合って怒鳴られるのは余りにも気の毒なので、カメラはやめたという経緯もある。

 

デイサービスに行っている時に少し歩いて行ける撮影スポットはきっとある。でもやはり父は今は母と共にいることで、かつてのワンマン親父で自分の都合を優先していた頃を埋めようとしているのだろう。

本当は母は嫌なのだ。写真を撮って配っていることも自分に向いていないと以前、ぼやいていた。

「自腹で印刷した写真を貰って、誰が喜ぶのかしらね」とまで言い切った。それを言ったらお母さん、アウトだよと言いかけたがやめた。

双方で歩み寄らなければ、今の生活は変わらない。それを伝える術を私は未だに持っていない。

 

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父が教えてくれたカメラの楽しさは、一眼レフを買ってもらった13歳の時から今もなお、私のライフワークとして続いている。

お彼岸に思う。

夫の父は1989年・母は2011年に他界している。県内に墓所があるのだが、高速を使わないと時間がかかる。また夫の休みは勤務表なので、元より「彼岸のあたりに…いや、行ける時に行けばいいよな」と長年、春と秋のお彼岸は、私と休みが合えば一緒に出向いていたし、ひとりで出かけている方が多かった。

 

2014年の5月に夫は肩関節を派手に骨折して、観血的整復固定術を受けた。左腕が(今は)50%くらいしか上がらない。重い荷物を両手で持つことはできなくなってしまった。執刀医に「元には戻りません」と言われて、彼は諦めかけたことがある。

 

高速運転。

 

私は80%ペーパードライバーで、目が悪い。車庫入れを大の苦手とし、高速教習を受けていないMT車しか免許がない世代。買い替えた時にETCになって、1回だけ空いている区間を運転したことはあるが、墓所までは飛ばす車が多くて怖くて運転する自信がない。

80%というのは子供を駅まで迎えに行く・普段車が余り通らない道幅の広い道路を運転できるというレベルで、夫は助手席に乗っているのが大前提である。

 

しかも墓所への電車でのアクセスが非常に悪くて、近いバス停は2時間おき。周りに店はなく、バスターミナルまでは3キロくらい歩かないとならない、車がないと生活できないところ。

 

実は3か月前。夫が思い出したように(今頃か?)「ETCが使えないんだよね。現金で払ったけど…」と言い出した。最後に使ったのが1年くらい前らしい。その時のことを話している。メーカーに聞くと「それは機械の故障だと思います」と言われて、「どうする?」と夫に尋ねた。

 

「修理はいいよ。もう高速で墓参りには行けない。俺、怖いから」

 

 

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夫が手術中の大量出血とその後の半年のリハビリ途中で仕事に復帰し、現在に至る。当時大学1年生だった子供を抱えて、もし何かあったらどうなったんだろう?墓所だって私の一存で決められたのだろうかと思う。何にせよ、夫は時間がある時に両親の墓参りには行きたいという顔つきで花を見ている。

 

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私の実家の墓所は他県だが、交通網は便利なので、時間と気合いさえあれば行ける。

何度も書いているが父には祖母(実質は伯母)の遺言通りに建てたところに齢80で行くことは苦行になっているだろう。

 

今年のうちに夫の両親の眠る墓所に行こう。人を思う心は時期とは関係がない。

せいぜい私ができるのはこしあんのおはぎを買ってくるくらいだから。

 

 

 

 

デイサービスでの敬老の日。

昨年の今頃からケアマネさんと相談して週に1日のデイサービスを利用して10カ月が経とうとしている。先週、敬老の日お祝い御膳を利用者の家族も共に頂けるということで、今日、夫と共に通っているデイサービスに伺った。

 

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10カ月の間、母も奮闘した。疲れるまで頑張ることと、自宅に戻ってからの反動をようやく解決して、楽しいということを伝えてくれるようになった。

招かれた時間は利用者さんたちの様子が見られる機会でもある。母は声をかけられると「はあい」とささっと立ち上がって、転ばないように職員さんに背後で見守られながら厨房へ入って、これまた楽しそうに盛り付けをしていた。

 

私、不覚にも涙が出てきた。ステンレスが光る厨房で過不足なく取り分ける母の姿は、曾祖母の家に行った時に厨房を手伝う母の姿を思い出させたし、正月に新年会を自宅でやっていた時(建て替える前の実家)は私が来るまではキャベツを刻み、他の料理の下拵えをして「あなたはいつものエビフライを揚げてね」と命じてから、子供や夫と歓談しにリビングに向かったこと。

叔父が「姉さん、少し座りなよ」と語りかけて、バックヤードではエビフライを揚げる(衣は母と下夫婦が付けている)私は1時間以上かけて全て(何本あったのだろう…)揚げ終えて、並べるのは母がうるさいので「お母さん、終わったよ~」と叫んでキッチンに戻す。

 

自慢じゃないが本当にうるさい。食べ物は目で美味しくという人なので、しまいには「あなたは雑だから私がやる」「じゃあ皿洗いする」そのうちビールを飲みながらお燗番になることだけは許可してくれた思い出が頭をよぎっている。

夫も「ここでは楽しそうだね」と喜んでいたのは同じ思いを抱いたからかもしれない。

 

ご一緒したのは母とよくお話をする利用者さんのご家族で、一番うるさいのが例によって私(-_-;)

母の隣に行って「今日は張り切ってます?」と聞き、他の利用者さんに「いつも母がお世話になっております」と申し上げると、「お母様とそっくりね、お顔が」と笑いを買う。「ここでは上品にしなきゃ」と焦っている間にお食事の準備ができた。

 

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ちらし寿司を主に、栄養バランスを考えた御膳だった。揚げ物はない。夫は黙々と食べて、気づいたら完食。私のなますを半分渡すと、「このなますはお母様が作ったんですよ」と教わった。どうやら夫(若い人ではない)は会社のお弁当が揚げ物が多いので、高齢者向けのお弁当が余程美味しかったようだ。私も苦手なものはあったけれど、残さず頂いてきた。

 

食事が終わってから、施設長さんに3人で写真を撮っていただいた。母は奥にいて歩いて指定された場所に来たのだが、足を引きずっていない。「お父さんに対する当てつけかもしれない。ここでは足は痛くならないもの」本音が出た!そこは頭の中にしまい込んで、思えば母と写真を撮るのは10年以上前じゃないかと思い、口角をあげて写真を撮っていただいた。

 

楽しい時間は気づきの時間でもあった。下にスナップを送ったレスがそれを示しているだろう。

 

「ここでは一番ですからね」

 

さて。配偶者である父のことも考えなくてはならない時期に来たようだ。

 

 

何かあった時に備える老夫婦。

ケアマネさんと私で計画していた、デイサービスの日数を増やすことは現状では無理だと両親ともに言われた。

・母の筋力が落ちたことと、父も前ほど身体が動かないので、夫婦で散歩をして鍛えたい。

・通院との兼ね合い。これはデイサービスの翌日と翌々日が通院になってしまうので、出かけることに身構える母が、もう少し今の生活に慣れるまでは無理だと話した。

 

でも多分、このまま週1回が精いっぱいなんだろう。

そういう感触を掴んで来た。

 

私も下も父の老いは感じている。当然、当の両親はまさに体感している。

ふと母がこんなことを言いだした。

「お父さんに何かあった時、電話はかけられない、お金がどこにあるか分からない」

何よりの不安だと思う。

その場では言わなかったが、私に連絡をすぐにできるかどうか。ここが何よりの問題になる。

自宅の方にはかけられるだろう。携帯は難しいかもしれない。留守電に入れるなんて至難の業。

 

父は自分に何かあった時に、一時的に病院に入れればいいと考えているようだがそれは違う。

そう言えなかった。父は持論に自信を持っているが、そういう時はショートステイを利用するしかないんだということ。介護のことを1年かけて少し理解してきたけれどやはり、新しいものを取り入れるまでには時間がかかる。

 

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※曼殊沙華※

 

この花を見つけた時にヘリが2機、飛んでいた。ドクターヘリかどうかまでは分からなかったけれど、もし、どちらかに何かあれば、すっ飛んでいくのは私だけなんだと、覚悟を決める日でもあった。今までも近い私が駆けつけることはあったが、年老いた夫婦には何ができようかと想像したら、無理なことだらけになってしまったのだ。

下には事後報告をして、きっと下なりの方法を取りたがるだろう。それを黙って私は尊重しなくてはならない。両親には下の言い分が一番だから。

 

そう思っていたけれど、諦めが出ていることを父がふと、漏らした。

「忙しいんだと思って連絡しないけれど、あいつも何も言ってこない」

私が連絡しない限り、下からは連絡は来ない。だから2カ月ほど音沙汰はない。

そんなことを気にしているよりももう、自分が動いた方が楽になる。身体は疲れても「文句があるならあなたたち夫婦が決めて実行したらいいんじゃないの?」

 

何回か飲み込んで、またも雨の降る日に駅まで歩いて帰った。

 

釣銭に悔しさをにじませた高齢者。

私も何枚か持っている記念硬貨。引き出しの中にしまってあって使うことはないが、以前、コンビニでパートをしていた時に厳命されたことがある。

 

記念硬貨で会計はできないと断ってください」

 

両替に行く時に機械ではできないそうで、窓口で手数料を払わなくてはならないからだそうだ。もし記念硬貨で会計をしてしまったら店員は硬貨を自分の財布の同じ金額と交換しなくてはならない。

もっと悪質だったのはゲーセンのコインと外貨コイン。流石にこれはばれるのだが、募金の箱に入れていく人もいたそうで、経営者は「善意か悪意か判断しかねる」と呟いていた。

少なくとも私が知っているコンビニはレジで店員がお釣りを手渡しする。もしそこに記念硬貨があったら、紛らわせてもとりあえずは分からない。

 

困るのは貰ったお客さんだ。どうやらスーパーのレジ(お金を入れれば釣銭は自動ででくるお店)で指摘されたらしい。「この硬貨は使えませんよ」と。今回の主人公は90代で自立しておられる方だ。

 

勤務先に来て会計をする際に受付で話したらしい。1割負担だから500円以内で済んだのに「あるんだけどね、500円。でもこれ、使えないんだって」と記念硬貨を見せてから千円札を出したそうだ。

「どこで貰ったんだか覚えてないんだけど…この1ヶ月、持ったままだよ」

本当は分かっていたのかもしれないが、地元なので(スタッフは全員、地元民ではない)言わないでおこうと決めたのかもしれない。推測だらけだが、同じことを2回話したあたりに悔しさが垣間見える。

 

マニアには財産・復興支援にもなる記念硬貨は実際には使い道はない。

何と皮肉なことだろう。

それよりも人を見て釣銭を敢えてそこにあった記念硬貨にしたと解釈することもできる。

かつて並んで買った記念硬貨を生活費に回さなくてはならない人もいるということだ。

 

旧日本円札を持って来た人も以前、いたなぁ…。