***心模様***

後期高齢者になった両親の老々介護・それを支えていくこどもたちのお話が主です。スピンオフとして私の趣味の写真などを載せていきます。

【スピンオフ】子育ては実は平等だったと気付かされた日。

我が家は核家族。両親の親は皆早世し、父の兄姉が近くにいたので、お産の時に手伝ってくれたのが父の兄の奥さんだったり、伯父・伯母は私を可愛がってくれた。殊に伯母は息子3人だったので相当甘やかしてくれたが、下が生まれる時は父が休んで私を見ていたそうだ。

だから産後は相当きつかったと思う。焼きもちを焼く私と、身体が余り丈夫ではない下。父は営業でほぼ飲んで帰ってくるから、休み(当時は日曜しかなかった)なんかもう、どうだったんだろう?と、孤軍奮闘していた頃を思い起こしてみた。その中で大事なことは、公団の分譲(社宅)に引っ越してから、近所の方々が私を数時間でも預かってくれたことだろう。

 

「美容院に子供を連れていけないから預かってくれる?」

 

母たち後期高齢者の世代は家に必ずウイッグがあった。美容院に行くのは決死の覚悟で子供を夫に預けなくてはならない。うちは接待ゴルフで日曜日もいない。幼稚園だなんだのイベントは母には「綺麗にできない」ことも苦痛だったのだろう。「下がまだ小さいので」と、徒歩で通える幼稚園も近所の方に送迎して貰っていた。下の時はウイッグをつけて出かけたが、これには下が泣いて抵抗したらしい(笑)「ママ。やめて~!ママじゃないよ~」 女心を分からない幼児だった。

 

昨日、先輩と話をしていて母の介護の話(生い立ちやら)をしていた。そこでふと思い出したのが「私はやりたい習い事をたくさんしているけれど、下は自分の希望の習い事はしていない」ということ。先輩は「お母さんはそういう風にして、下のお子さんが病院に行く代わりにあなたにいくつかの楽しみや選択肢をくださったと思えばいいのよ」と仰った。

 

転居した時にたまたまエレクトーン教室があった。オルガンを長くやっていたのでどうしても通いたかった。家のローン・下の病院通いがあったにもかかわらず両親は月謝を、そして高いエレクトーンを買ってくれた。

下は父がコーチをしていた習い事に無理やり押し込まれ、母に「何で好きなことをさせてくれないの?」と文句を言い、休もうものなら父に殴られそうになり(身体を鍛えるとか言っていたが)「もう行きたくない」と父にはっきり言い自由の身となった。

 

何だかんだの末、私が24歳・下が28歳で結婚したのだが、下の結婚の際に母から電話が来た。

「私あなたにいくらあげたっけ?」一応持参金というものをつけてくれたのだ。(夫には内緒)

「披露宴のお金は折半で出してもらったでしょ?それ以外にお父さんからって〇万円貰って、お母さんはミシン代をくれたよ」

「分かった。ということはミシン代…ああ、あの子には一人暮らしをした時に家電をあげてるから相殺できるわね」←しっかりもののお母さんであった。

 

今思い出した。平等という話だけど、下は一浪して私立大に入っている。私は現役で公立短大に入った。当時の国公立の学費は、今の公立高校の毎月の授業料の1年分に相当する額。どれだけ安く(皆様の税金を使い)通ったかと思う。

「だからやっぱりお金は〇万円でいいということにしようと思うわ。あなたが自分で公立に行くって決めたんだものね。お金がない時期だったねえ…」

 

今はそんなことは覚えているわけがない。両親は生きることに必死だから。

 

孫は1人。今は自分のこと(自分たちのこと)でいっぱいな両親と孫。いずれこの関係を書かなくてはならないかな。それが私と母の子育て感の違いでもあるから。

習っておけばよかったと後悔する。

今日は休みだったので、頼んでおいた身欠きにしんを前日からあく抜きをして煮てみた。確か母は3日かかると言っていたが、もしかして私は材料を選ぶ段階から間違っていたのかもしれないなどと色々考えていた。記憶をたどり、最後はネットで調べて作ったのがこれ。

 

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「米のとぎ汁でやればいいわ。あ、ぬかがあるならなおいいじゃない」と母は昨年末言っていた。その通りに昨晩、ぬかにつけておいたが、どうも脂っこい。お茶で更にあくを取り(母はとぎ汁を3回変えていた)時間をおいてから洗い、煮汁を作ってから煮込んで1時間経ったのがこの写真。

 

「これはにしんが違うんだ」と分かったのは、煮崩れしだして分かった。だから今宵はにしんそばしかできない。

母は固く干してある身欠きにしんを選んで買い求めた。そのために遠路出かけることもしばしばだった。この年末年始も食材は買ったけれど「腕が落ちた。こんな味じゃなかった」と何度も呟いていたのだ。

 

新年会はしなくても誰かのために(私も好きなのだ)作っていた煮物。母が買っていたであろうにしんはもう、買いに行くことはできない。お店が閉店してしまうからだ。

何とか入手できたら、今のうちに母に味付けを習っておこう。何十年と作っていたものを思い出すのに時間がかかってもいい。そのレシピを書くことができない母だけど、味覚はまだしっかりしているからこそ、しっかり教わりたいと思っている。

【スピンオフ】よそ様を探るなと強く言った理由。

よそさまのご家庭を覗くんじゃない!と親を諫めた私だが、命を絶った方は小学生の頃から複雑な事情を抱えて生きていたことを思い起こしている。

 

kanade15.hatenablog.com

 

前回の記事を引用する。自死した方は40代の未婚者だった。実家の近くに転居してきたのが小学生の時だった。ご家族でご挨拶に来てくださったのだが、1年後くらいに母親が家を出て他の男性との生活を始め、親が離婚ということになったと母から聞いた。どちらかというと派手な感じのお母さんの印象が強かった。上のお子さんはある程度分かっていたようだが、その方(仮称Aさんとしておく)には相当のショックだったらしい。転居しても友達がなかなかできなかったようで、不登校になりだしたのは恐らく小学校6年生くらいだと思う。そして中学校には1日も行かなかったと聞いている。その頃は近所の人が声をかけると走って逃げたり、クラスメイトが担任に命じられて迎えに朝、行くと、父親が申し訳なさそうに「今日もダメみたい」と頭をさげていた。そのうちクラスメイトも部活の朝練やらで寄ること自体が難しくなり、Aさんは周りが高校に行く頃になってやっと、外に顔を出し、父親の仕事を手伝っていたそうだ。

 

わが母も下がいじめで不登校になった経緯もあり(この詳細を聞いたのは何と、4回目のケアプランの時だった)時代を振り返っていた。中学校がマンモスなので、下の時は12クラスあったそうだ。教室には限りがある。9クラスだった私ですら、3年生の時はいわゆる特別教室が私のクラスだった。だからクラスを増やしてもすし詰めだっただろう。

 

小学校もそういえばクラスが増えていた頃。どちらにも言えることは「学区が広すぎて手が回らない担任教師の現状」ではないかと思う。下のいじめが分かったのがいじめ開始から1年後という状況だった。だからAさんのところに担任が訪問している時間があったとは思えない。

 

母が心を痛めていたのは「自分は継母に異母弟の子守を頼まれ嫌とは言えずに中学を休んだり、貧しくてお弁当がなかったことがあったけれど、あの子たちは食べるに困ることはないのに、何故、苦しまなくてはいけないのだろう」ということだった。

 

実はその後、私や下が家を出てからの話だが、Aさんの母親は復縁をして数十年ぶりに戻ってきた。親子の間に何があったのか・どんな関係になっていたのかは知る由もない。母が昨夏にせん妄状態を起こす物語の中で、Aさんの母親が毎回登場していたのは、もしかしたら引っ越してきてから離婚・そして復縁というAさんの母親の生き方が母に何かをもたらしたのだろうか。

 

だからこそ、家の中でAさんのことを詮索するのはやめて欲しかった。母は精神疾患である。何がきっかけで悪くなるかを両親とも相変わらず分かってくれないもどかしさを感じている。

 

遠くへ自分で行くことを選んで実行してしまったAさんの幼い時の顔を思い出す。合掌。

 

 

 

 

 

ケアプラン会議4回目。

今回の会議は新しい介護プランの作成の確認で、デイサービスを週1回利用することと曜日が今月から変わったという話を書面に起こして頂いたものを父が確認・捺印するという形式を踏んだ。これは3か月に1回の見直しを行うということで、ケアマネさんが考えてくださったのは、耳鼻科の通院を中心にしていた前回だったことを加味して考えてくださった。母は「家のこと(食事の支度)ができなくなるから週1日でいいです」とケアマネさんに話をしていた。

 

この1か月の中で母に課せられたことは「耳鼻科に1人で行く」ことだそうだ。2人でバス代を使って行くには流石にお金がもったいないと判断した父が、「前に住んでいたところの近くだし行けるだろう」「分かるわよ」の悶着を経て決めたそうだ。

 

私が実家に行った時は母が出迎えてくれた。風邪をひいて内科に行った話をしていたが、少なくとも起きていただけよかった。顔色もそれほど悪くはないので、当たり前の母娘の光景で過ごしていた。

2階にいた父を電話で呼ぶ時の声の雑さには驚いた。「お父さん。もうすぐケアマネさんくるよ!」

 

母の話し方というのは(昔からだが)きれいな言葉を使い、優しく話す。どうやらそれは小学生の頃(父親が再婚する前)に自分の祖父母から学んだらしい。仕出し料理屋の孫娘は接客を仕込まれたので、ケアマネさんも感心していた。確かに方言は出てこないなぁ…と、私も子供の頃から思っていた。

不肖、私も引っ越してくる前は相当お上品にお話をしていたそうで、「これ、パパに買って頂いたの」等々、団地のお嬢様だったらしい。それが引っ越した戸建てでは「そんなのしらね~よ」と変わって、母は相当嘆いたのを覚えている。

 

前日に、近所の方が亡くなったという話を聞かされた。下の同級生になるのだが、自分で命を絶ってしまった。不登校・少しの間引きこもりだったので、私たちは話を余りしたことがないが、母は見かけると声をかけていたようだ。だから母には話をしていたようだが、最近のことは(自分たちのことで手いっぱいで)両親も知らなかった。どうしても野次馬になりがちな両親を諫めた。

 

「人の死を茶飲み話にするのはご法度! 親御さんの心を考えてみなさい!」

 

両親よ。あなたたちには言わなかったけれど、私は1回、命の危機に見舞われた。「よく自力で病院に来た」と大学病院で驚かれたの。あの日支えてくれたのは子供だった。とりあえずの症状と治療に対してのヘルプをお願いしたけれど、真実を知っているのは数人だけなんだよ。

 

話はそれてしまったが、この件が母の心に響かないようにと願い、下にメールを入れた。

 

前に進もうとする思いと触れ合い。

目下冬季うつ状態の母。三が日が明けてから電話を1回かけた。曜日を変えたデイサービスに行く前日だった。

期待と不安が織り交じるけれど「やっぱり私も外に出たいのよ」と言っていた。但し状態がよくないので横にならせてもらうことが多いかもしれないとも。デイサービスにはソファーがあるので休むことも可能だし、お昼寝タイムもある。行けただろうか?と先週は風邪をひいたので寝込んでいた私。父に聞いても本音が出てこないし、流石にデイに行った日は疲労困憊だそうなので、日曜日の朝に電話をかけようと思っている。

 

下が年明けて電話をした時、母の弟分と従兄(この2人は同い年)に会いたいと涙ぐんで話したそうだ。姉弟のように育ったこと・叔父がどれだけ心砕いてくれたか。そんなことを寒くなると、生まれ育った東北を思い出すのだろうか。もてなしができない今、もう1度語り合いたいのだろう。

 

どうしても過去との無限ループを繰り返してしまうので、自分なりに考えたのが新しい環境での人との関わり合い。母が家から1人で出かけることは滅多にない(鍵をなくす可能性があるので、父と駅までは一緒に行く)ため、もう近所の方と話をする機会もないからこそ、前に向くために必死なのだ。

 

父の意図が図りかねるのだが、母には「自分から電話をかけるな」と申し渡している。だから2人の子供は”電話をかけないと”実家の様子が分からない。面倒だと父は「お母さんは風呂」と言って切ってしまう。電話は確かに相手の自由を奪うものではあるが、それよりも父は。母が電話先の方に対して言うことにせん妄が現れた時の弁明をしたくないという気持ちを感じ取れる。

 

前に向くだけがが母のためになるのだろうか?

 

昨年から考えていたことなのだが、仕事で関わってきた方とのやりとりを思い出すたびに、前を向くにも限度があるのではないだろうか。健康ならまだしも、喘息もちの母には…と。

その方は不定愁訴がいつもある。治療することはほとんどなかったのだが、繰り返しのことに対して話し相手のようになるのがその方にとってのつかの間の平穏だったのかもしれない。

 

現在、月に最低2日は実家に私が行くのだが、父の用事の方がややこしいので、母と話をすることができない。夫と休みが重なれば(彼はシフト休)車で行けるが耳鼻科通院との兼ね合いもある。

夫と話をして母の屈託が軽くなればそれもまたよし。本当に時間は紡ぎださないとと改めて思う。カレンダーを見てため息をついて…それでも夕方に実家に行くことができる日を探している。

シルバーパスを勧めた。

あけましておめでとうございます。今年もゆっくりとブログを更新していきたいと思っております。

 

母はデイサービスの曜日を変えることになり、今週から始まる。また開業医が再開すれば耳鼻科詣で(通院)に行く。精神科は隔週にして貰うという話だが、以前ちょっと書いた「バス代の節約」を、年末に下経由で話をして貰ったので、そちらの話を書いていく。

 

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ゴールドパスを買うようにと話し、購入期間に間に合うように、マイナンバーカードの写真付きを申請するようにと、下が説明してくれた。

 

これを提案した理由は通院だけではない。実家はいずれ買い物もバスで行くようになるのが分かっている。今は徒歩でも行けるが(自転車は双方乗らない)そして確かに初乗り程度ではあるが、1か月に16回乗れば元が取れる。いっぺんに出る金額が大きいから半年にするかもしれないが、いちいちPASMOをチャージしているのも面倒だと思う。実際、駅でチャージしていればバスが行ってしまうという現実もあるそうだ。

 

営業所の場所は両親も分かっているので、写真付きカードが早くくればうまくいくだろう。

高齢者の身分証明書としてマイナンバーカードを使う日が来るとは正直、思わなかったが、これも現実の1つなのかもしれない。

建て替えた時の失敗を話す母。

10年ほど前に実家は家を建て直した。土地が狭いので間取り的には2LDKの戸建て。1階がLDKで2階に夫婦の寝室と下や子供が泊まりに来た時用の部屋がある。(そこが元の私の部屋)子供との同居を頭に入れない間取りだが、ドアや窓は背が高い人向けになっている。

両親のベッドは並んでおいてある。父の方にはPCがあり、その先がベランダ。

 

「建て替えた時にお父さんと別室にすればよかったのよね」

 

10年前だと、父がゲートボールに出かけてばかりの頃。1か月ほど借家住まいだったのだが、余り綺麗ではなく、母は白内障の手術を入院ですることで”そこから逃げた”日々もあった。それでもまだ父に対して「運動しているのはいいのかもしれない」と妥協をしていたのだろう。引っ越した頃はまだ、車はあったので車庫もついていた。

 

「お金があればお父さんと別に暮らしたいと時々思うわ」

 

その理由がようやく、母の口から語られた。父はテレビを見ながら聞き耳を立てていると下が話していた。

デイサービスの日の話をしていた。ゲートボールをしていた頃と同じに、少し早く起きてお昼を作っていく。デイは9時くらいに迎えが来て、17時ころ送ってもらう。そこからが母にはきついらしい。

「18時にお風呂に入らないと、お父さんは機嫌が悪くなるし、ご飯は19時でしょ?私も楽しいけど疲れちゃって…そこで喧嘩になって行かなかった日もあるのよ」

真偽はともかくとして、確かに私たちが電話をしても父が母に取り次いでくれという話を遮る理由は、やはり彼のペースに合わせさせていることを隠すためだ。申し訳ないけどそれは子供たちがよく分かっている。

 

父が母に対して規制をかけていることがいくつかある。①自分で電話をかけない。②薬を飲む時は父の前で飲む。③鍵は持たせない。③に関しては一度、落としたことがあるので仕方がないのだが…意思を隠せないようになった母は、腹が立って仕方がないわけだ。

 

父は4人で話をしている間、ダイニングには来なかった。TVを見て何を思っていたのだろう?下はお母さんっ子だし、配偶者は久しぶりに会う義姉(私)に子供の就活の話を聞きたがって色々と話し込んでいた。

母は下夫婦に鍋を用意していた。私も勧められたのだが、昼はがっつり食べられないのと、自宅に戻ってやることがあふれているので遠慮して一人、喋りまくっていた。

 

デイサービスの話も教えてくれた。クリスマスイブの日だったので「ホットケーキに飾り付けをしてね。手を洗ってから頂いたのよ」これが楽しそうじゃないとは思えないのだが、来年からは曜日は変わる。新しいお友達ができるようにと願うばかりだ。

 

ぼっちの父に私が声をかけた。「お父さん。お腹すいたでしょう?お鍋、食べてくれば?」

「おお。そうだな。腹減った」その後がうるさい。「飯はないのか?」だから母がキレるのだけどね。

がつがつ食べる父の注文に答える母たちに暇乞いをして、下と話をして(子供にお年玉を用意してくれていた)今年の訪問は終わった。

 

やはり、電話では無理だ。始終監視されている感と自己主張ができない母。見守っていることが正しいのかどうかを少し勘違いしている父。来年もまた、色々あるだろう。

 

年老いたら夫婦別室がいいと母が言ったことがもしかしたら今回の発端なのかもしれない。