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***心模様***

後期高齢者になった両親の老々介護・それを支えていくこどもたちのお話が主です。スピンオフとして私の趣味の写真などを載せていきます。

孫を思い出した母に喜ぶ孫。

ややこしいタイトルで申し訳ないm(__)m

 

両親の孫は我が家にいる外孫1人である。介護認定を受けた時の記憶は全くない母。

あの時私は母に「孫がいたよね?」と聞いたら、「いる。◎って子でろくにうちに来ない」と言った。その後は両親ともに孫どころではなく、私や下、時には夫が実家に行く様子を見ていて、「祖父母はもう、自分のことなんか見ていないんだな」と思っていた。

「お正月に実家(と子供は言う)に行かないっていうのは寂しいね」

「お年玉はもう、貰えないんだね」

「おばあちゃんは自分のことを覚えてるのかな?」

ひとり孫で大分甘やかされたし、実家のご近所の奥さんたちに受けのいい子供。最後に行ったのは昨年の成人の日に晴れ姿を見せて、遅ればせのお年玉やらお祝いを貰ってきた時だった。

 

昨日、母に子供が春から一人暮らしをするかもしれないと話しかけた。

そうしたら急に母、「ああ。◎と会ったのは成人式の時が最後じゃないの!」と答えた。

ああ、覚えてるんだなとちょっと嬉しくなったので、帰宅して子供に話した。

 

「おばあちゃん、ずいぶん元気になったんだね」

「感情の起伏が激しいので突然泣き出したりするけど、ご飯はお母さんよりうまい」

「そっかぁ~。遊びに行けるかなぁ~」

 

我が家にあるプリントアウトした介護関係の資料をふと見たり、時に電話の後、頭を抱えている私を見て、子供はどうしても友達の祖父母と比べてしまうのだ。

 

どうしておばあちゃんは苦しむだけの人になっちゃうんだろう?

 

子供は行動こそ大胆だが、内面は大学のことで葛藤していた時期がある。

それを乗り越えて今、就活やら卒論に向けて動き出している。

色々な人がいる社会の荒波に乗り出して、少しは分かってきたのだろうか。

元々子供は精神医学をやりたかったのだが、何が何でも国公立の医学部しかダメと私が言ったりしたたので「それは無理」と、志望を変えた経緯があるから、老年期の心理までは分からないとしても、心の病に関しては自分でも調べてみることがある。

 

あなた(や私・夫・父)のように好きなことをする時間を作れなかったんだよ。

 

おばあちゃんはやりたいことを諦める性格だったんだよ。今、その反動が来てるんだ。

 

母は一番正直に生きている。見返りのないことを嫌だとはっきり言っている。

今、母から外へ出る機会を寒さが奪っているけれど、そのうちに春が来る。そうしたらきっと散歩も再開できる。

 

両親が何を言い出すか分からないけれど、子供には両親の老いを知っていて欲しい。

そう感じた日でもあったし、時間があったら子供を伴って実家に行こうとようやく、我が家では思いが固まった。

別世帯の親が介護状態になった時、あなたは同居できますか?

今日のケアプラン会議では母が積極的に感情を出した。ケアマネさんに向かって泣きながら話していることを、父も私も(今日は夫も一緒だったがTVを見て席を外してくれていた)黙って30分、聞いていた。

 

その1つはデイサービスから帰ってからの夫婦の過ごし方が「皆さんとは違うこと」にあった。

少人数制で自宅まで送迎してくださるのだが、デイで相当気を配っていて、利用者さんは色々な状況の方がいるので、心身ともに疲れる。

どうやらデイサービスを受けておられる方は皆、子供と同居しているので、終わって「自分で夕食を作らなくてはならない」ということがないらしい。流石にお弁当にも飽きた母は、帰宅してお茶を飲む間もなくキッチンに立つ。時には包丁を持つ手が震えることもあったそうだ。

 

今までと母が変わったのは、父に「無理だ。できないから手伝ってくれ」と頼むことだ。父は当初、デイサービスで「遊んでいる」と思っていたのだが、毎回空き時間に作ってくださる”今日の様子”を見て、「これじゃ飯を作れというのは無理だ」と分かった。

母の指示通りに食材を切ったりして、母が落ち着いた頃にキッチンに立って食事をしてから入浴をするようになったと、ようやく話ができそうな時に、ケアマネさんに音声多重で伝えていた。

 

「娘が母親に他者との交流を願ってデイサービスという手段を選んでくれたのだから、私(父)も協力しなくてはいけないと思っています」大進歩の父。命じる母も大進歩!

 

私は少し考え込んでいた。両親にもケアマネさんにも話さなかったけれど、デイサービスに行く前日の夜に何か作っておいて、仕事に行く前に実家に寄ってから行くべきかと。デイの日は午後勤務だが、実家を遅くとも10時半過ぎにはでなくてはならない。

 

母が食に拘る人だから、食のことでデイを辞めたいと言い出すかとはらはらしつつ、頭の中では考えていたのだ。でも、ケアマネさんに「私は行きたいんです」と、話をしたい・動きたいという希望は見せている。

それよりも「心に鬱屈がたまった日の夜に、こどもたちに電話をして聞いてもらうのは、仕事で疲れているだろうし、申し訳なくてかけられません」とケアマネさんに言っている方が気になった。

私は「いいよ~。21時過ぎだったらご飯作り終えているし」と話したし、ケアマネさんも「電話、くださっていいんですよ」と仰って頂いた。

 

今、母は地域の中で話ができる人は殆どいなくなった。

「あの人はおかしいからね」と、せん妄状態の時に母が頼ろうとした人は、そうかつての友人に話して、電話に出るなと言いまわっているそうだ。

確かにそれは仕方がない。せん妄状態の時に母がとった行動は常軌を逸し、その人に恐怖感を与えてしまい、それが医療保護入院の契機となったのだから。

 

 

kanade15.hatenablog.com

 

そちらのお宅は同居しているお子さんがいて、もう1人は近くに住んでいる。もし介護状態になった場合、配偶者が嫌がらなければ在宅介護は可能な状態である。

うちは市外・県外だから…特に下はもう異動ができる年齢を過ぎてしまったため、同居は不可能。

我が家がもう1回ローンを組んで戸建てを買うのは夫の年齢を考えても、私のパート収入でもどうやっても無理だ。両親を自宅の近くに呼ぶなど余計に無理。彼らが選んだ街から離すなど、特に父は参ってしまうだろう。

 

子供のママ友は旦那さんの親御さんが介護状態になった時にマンションから戸建てに移って、在宅とデイサービスを上手に利用して、彼女もパートをしながら(介護職)親御さんを見ている。必ずしも皆がそういう状況にはなれないけれど、何とか知恵を絞ることはできるだろう。

 

今宵は下に、PCからもメールを送ろう。たくさんやることがある。

 

夫よ。買い弁でごめん。寒い中付き合ってくれてありがとう。

 

 

 

 

家を訪ねてきた警察官から聞いた話。

私は中層マンションに住んでいる。今日は宅配便が19時過ぎに来ると思って、オフの昼寝を満喫していたのだが、17時位にチャイムが鳴って、出てみると警察官がそこにいた。最寄りの交番から来たという彼は、「〇〇さんをご存知ですか?」と、隣のフロアの方の名前を出した。「ええ。お話は最近はしませんが」と答えると、「実は亡くなったのです」という言葉が出た。

 

驚いたのは言うまでもないが、「最後にお見かけになったのはいつ頃ですか?」の問いに暫し、答えられなかったのは、察してしまった事情が心にのしかかったからだ。

 

独居老人の孤独死だった。配偶者はかなり前に闘病の末亡くなっている。それを私は〇〇さんから直接伺った。というのには理由がある。

このマンションに越してきた当初は、配偶者がお元気で、テラス越しに声をかけてくださった。「お子さんが小さいからお洗濯が多いでしょう?」とか、回ってくるお豆腐屋さんの話などをしていたのだが、2~3年後だっただろうか。脳血管障害で倒れた配偶者の介護を、リタイアしていた〇〇さんはしておられた。どれくらいの期間だったかは覚えていない。桜が咲いている時期にお子さんが来て、車いすで近くの桜の名所にお出かけした時には晴れやかなお顔をしていたので、配偶者さんに「綺麗な桜をご覧になれましたか?ちょっと寒かったですね」とお声掛けしたのを覚えている。

 

数年の介護を経て入院した配偶者が亡くなったことを教えてくれたのは〇〇さんだった。

 

その後、私は仕事をはじめたりして余り、〇〇さんとお会いすることはなくなったけれど、挨拶はする間柄であった。警察官に最後に見かけた時を聞かれて、「休みの日で…今年だったか昨年だったか正直分かりません。夫が平日休みなので、帰宅したら聞いてみます」と伝えてお帰り頂いた。

 

父が母の入院中は、病院のランドリーを頼まなかったので、毎日洗濯物は2人分あったけれど、独居だったら毎日する必要もないし、外に干さなくても構わないだろう。きっかけを見つけるとしたら新聞がたまっていないかということだけど、新聞受けを開けっ放しにしているおうちだったら分からない。一時我が家も不在通知が確認できないので開けっ放しだった。

 

部屋だっていくつも使う必要はない。電気がついているかどうかは夜じゃなきゃ分からない。

それよりも近所の人がどれだけ独居老人に注意をしていただろうか…猛省。

夫が帰宅して聞くと、1月中旬以降にお見かけしたとのこと。その旨を警察に連絡しておいた。

 

私が住むフロアは、古くからいる方たちはやはり声を掛け合っているし、家族ぐるみのお付き合いがあれば、飲みに行ったりしているようだ。我が家ともう2件は奥さん同士が年が近いので、子供がらみの話をしたり、差し入れをしたりされたりの間柄だ。

 

お子さんたちを責めたりしてはいけない。親のそばに必ずしも住んでいるというわけではないこと。

何度も私は言うけれど、生活能力があるうちは、自分の家で過ごしたいと思うのが高齢者なのだ。

介護状態になるまでは子供たちもそこにいて欲しいと願う。

 

生前のご厚意に感謝し、ご冥福を心よりお祈りする。合掌。

 

姑の生涯(介護)とお別れの時の話。

姑は東日本大震災の翌年に95歳で天寿を全うした。1年以上…期間は定かではないが、もしかしたら2年入院をしていたのかもしれない。医師から「いつ逝ってもおかしくない」と言われて1年間、持ちこたえた。その間に義兄は葬儀の手配をしていたと夫から聞いている。

 

記憶をたどると、80歳になって義兄一家と同居していた姑は、自宅といくつかの不動産を売却して結婚以来長く住んでいた、彼女の夫や夭逝した息子の墓所から離れたところへ転居した。それまでは高齢者でも歩いて行ける墓所まで毎日、水をあげたり手入れをしていた。

引っ越したところは戸建てと畑が広がる場所で、80歳を超えた姑には散歩も危ないし、何より迷子になるのが家族には怖いことで、恐らく家の周りを歩くだけだっただろう。舅の墓参は息子たちに頼まないと行けないが、それぞれに仕事があり、年に数回行くか、檀家だったためお坊さんが来る時に話をする程度になった。

 

転居した時に介護保険を申請していたようで、要介護2。週に2回の入浴サービスを受けていた。それが数年続いたが、歳を重ねるにつれ認知症が進み、在宅介護が諸般の事情で困難になり、身体も弱ってきたので入院という運びになったと思われる。

この地域は在宅介護が多いところなのだが、姑がなぜ困難だったと(推測だが)いう理由は、義兄夫婦の相次ぐ病気による入院がある。介護する側が交代で入退院をしていた時期だった。

それに加えて姑の認知症が進み、目が離せなくなったとなれば、特養なり老健を探すということになるが、そういった施設が格段に少なく、食事を自分で摂取することが難しくなったことも、元々病院に通っていたから長期入院となったのではないだろうか。入院までの間は、入浴サービス以外は自宅で過ごす。鍵は持たない・食事は置いてあるものを食べていたのだろう。

 

我が家から姑のいるところまでは電車で行くには気合いを入れなくてはならない。多分乗り継ぎが悪ければ2時間近くかかる。車の方がまだ便利だが、夫は現役サラリーマン。休みの関係で(介護する家族が留守の時は家に入れなかった)年に1回くらいしか母親には会えない。きょうだいの1人は自営業。高速を飛ばして車で来られなくもなかったのだが、姑が亡くなる前に目を悪くして運転をやめてしまった。話し相手になるはずの子供たちのことも姑は段々と忘れていき、寝たきり状態へと移行していった。その時点で90歳を超えていた。

 

住む場所が変わることが高齢者の心身に影響することは姑の件でよく分かったけれど、借金を清算するためには親が建てた(譲り受けた)家を手放さなくては義兄たちはいつまでも借金を清算できない。故郷を後にする辛さは義兄たちもあっただろう。

 

姑の葬儀に来てくださったのは夫の同僚や友達が殆どだった。義兄の友人関係までは夫も私も知る由はないが、夫はとても感謝していた。孫たちが受付や接待をする中で、私は夫の関係者に「遠路から有難うございます」と頭を下げていた。それくらいしか不肖の嫁にはできることがなかったのだ。

 

おばあさん。見えますか?あなたの見送りに息子の友人がたくさん来てくれましたよ。

 

高野病院を支援する会

 

 

 

 

 

 

 

「遠距離介護は限界か?」と悩む知人。

うちは下が遠距離介護になる。だから私がキーパーソンとして動き、下の意見を組み入れてのアクションを起こしてもうすぐ半年になるが、知人(同世代)もまた、遠距離できょうだいに委託して親の介護をしている。親御さんは単身で自宅に暮らしている。

お子さんは2人。1人が地元で別所帯を持つが夫婦ともにフルタイム生活。知人は自営で奥さんが手伝っている。お子さんが高校生なので大学受験を来年に控えている。

 

親御さんには週6日、何らかの介護サービスがついているのだが、空いている1日にせん妄を起こして一騒ぎを起こすらしい。流石にきょうだいだけに負担をかけさせるのはどうだろうと考え、自分の住むところにある老人ホームに入れようかと考えたそうだ。受験生がいる・自営なので引き取ることは難しい。奥さんが離職することになってしまうからだ。

 

「程よく離れた距離で入れる施設をご存じないですか?」と相談を受けた。かつて私は高齢者施設に出入りしていたことがあるため、多少は知っている。「特養は要介護3以上ですからまずは老健でしょうか。或いは空いているグループホーム・サービス付き高齢者住宅ですよね」と言うと、「月に30万は無理です。年金でできる範囲で…は難しそうですね」と言われた。

だからうちも在宅なのだけど(母の年金は2カ月で16万だった)我が家も同じだ。

 

入居者である高齢者が資産持ちだったりご家族がお持ちであれば簡単に解決するかもしれない。それよりも人の命がいつまでという期限は誰にも分からないし分かりたくもない。今まさに生きて自分のペースが多少狂っていても、生活だけはできているのだから。

 

施設に入れればいいという問題ではない。それは出入りしていたところで「誰も来ないんだよな…」と時には話し相手になっていたことを思えば、やはり家族の誰かが時々訪問をして、入用なものを持参し、時には外に連れて行かないとならない。

これは入居者のお子さんが私に呟いた一言が、母にも当てはまると思った。ちょうど母が介護状態になった時に聞かされた。

 

「僕が週に3日位きて車で外に連れて行っているんだけど、お袋には刺激がなさすぎるんだろうか?年も年だけど、段々と弱っているんだよね…」

 

介護職員は施設でコールがあれば走り回る。認知症の方にはかかりっきりになることもある。皆さんに均等にサービスを提供したいという思いが切々と感じられることが多かった。

 

「ここにいても面白いことはない。いられるまでは家にいる。食事はコンビニの配達でも大丈夫だもの」

 

足が悪い以外は大変明晰な方。入居も自分で決めたのであろう。

知人よりは多分、私の方が知っているとは思う。少し施設探しのポイントを教えるが、行政の区分があって、そうそう簡単にはいかないことは事前に伝えてある。

 

 

父のライフワークの”見守り”を母は認めている。

島根県で子供の見守りをしておられた方が輪禍に会い亡くなったという報道を見て、私も夫も父のことを思い浮かべた。

かれこれ何年やっているのだろう?10年?朝6時半くらいに交差点に立ち、「おはよう!」と生徒たちに声をかけ、時には「おじさん。忘れ物しちゃった」という生徒に「家に電話しなよ」と携帯を差し出すらしい。忘れ物をしたら正直アウト。だから電話をかけて親御さんが学校まで届けるように話をさせるらしい。学区が広い地区であり、見通しがいい直線道路では、大型車が結構飛ばして交差点を曲がるところに父は立っている。

 

だから父は早寝早起きで日々を過ごす。昨年の梅雨前から母がせん妄状態になった時は夜も眠れない状態で相当参ったらしい。母が昼夜逆転していたので見守りだけは1学期のうちは(実家の方は3学期制)無事終わった。今は3学期で毎朝交差点に立ってまた、子供たちに声をかける。休んだのは父自身が手術を受けた前後の数か月だった。

 

父が休んでいることをお子さんから聞いた私の友達がメールを寄越した。「お父さん、具合悪いの?」シークレットにしていたのだが手術も終わったので、「実は耳の手術を受けて今は自宅にいる」とレスしたところ、お子さんとお友達が実家に来てくれて、手作りのお菓子を頂いて両親は感涙したということもあった。(この話を今月の会議の際にすると、母は忘れていた…)

 

ゲートボールだけは嫌がったが、見守りに関しては母は何も言わない。父が始めた頃から母はうつ病だったので朝が遅い。父はパン食なので、ヤクルト・バナナ・ダブルソフトがあれば見守りに行ける。前の日に洋服を決めてあげるのは母の仕事だった。

 

父には父の生き方もあることを母が許容できるか?

私たちはせめて父には生徒の見守りだけはさせてあげたいと思った。

だから一時、母の施設入所も考えたのだ。

 

理解できなかったのはその通学路を使っていた私。道路と歩道だけがあるところを下を連れて、長じては友達と”複数で”登下校するように言われた。我が家の子供が通った小学校にはこういった見守りは当時、なかった。その代わりに当番制で指定された日・場所に交差点に保護者が立つというシステムだったので、見守りということ自体が「何それ?」だったのだ。

 

子供と接することが好きな父のライフワークはなかなか毎日できることではない。恐らく輪禍に遭われた方も、また同じように見守りをする高齢者の方も好きだから続けられることだ。それが命がけとなってしまうなんて…余りにも辛い。かつて普通自動車2種免許を保有していた父はさぞ、悔しいだろうと推測する。

 

依頼されたことをやろうと考える。

母が通っているデイサービスで「保育園の子供が使えるようなままごとの道具」を作ろうという話になって、母はフェルトでジャガイモを作る担当になったらしい。

最初に「今、ジャガイモを作っているの」というので、「え?今植える?」と大きく勘違いをした私。「違うわよ。縫うの」はいはい、分かったよ(笑)

 

チラシを子供の手の大きさに丸めて、芽の部分は裏から糸で縫って引っ張って凸凹を作る。それから縫えば本物らしいでしょ?

 

大した発想。手芸が好きで手が抜けない人ならではの発言に脱帽した。

 

デイサービスの曜日を変えて、年齢層が自分に近くなった。でも母からみて「すぐに忘れてしまう認知症の人がいる」けれど「危害を加えるわけじゃない。穏やかな方たちばかり」なので、「毎週行かなくては私は他者との触れ合いがないとよくない」という冷静な判断ができるようになっていることに安堵する。

 

問題は耳鼻科への通院がもう3か月目になり、運動と節約を考えて50分歩いて帰ってきて風邪をひいているという行動パターンである。

電話を切った後で、母がこの50分を裏道を通って”自分で”帰ってくるとは思えないことに気づいた。

父が一緒の時だったら裏道から帰ってくることはできるだろう。恐らく母は大通りしか覚えられないはずだ。

 

何にしても、デイサービスに行って疲れてお弁当を買うということに抵抗がある母。それで週1日だけしか行けないと考えているのだろう。

私だって仕事が遅くなればデパ地下で総菜を買って帰ってくることもある。時間があれば前日や出がけに作ることはできるし、そうそう買って帰ることもできない。

 

「でもね。週に1日、1食500円の幕の内弁当を食べてもいいんじゃないのかな?」

そう母に伝えた。「風邪で咳が止まらないけれど、緊張すればでないって不思議ね」

家で咳き込んでいた母の顔と、電話で話す母の声が変わりつつある。