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***心模様***

心の病を持った妻とそれを介護していく夫・そして2人の子供たちの介護へむけての取り組みなどを綴っています。また、周りの同世代の介護・高齢者のお話も時々呟いていきます。

娘もまた、恨まれていた。

医療保護入院直後のことを殆ど覚えていない母だが、「下を誰かと間違えていた」ことを聞かされたのだろう。「何で”優しい”あの子を間違えていたんだろうね」と述懐する。

その時に「そういえば親戚から電話がかかってきた時も(苗字は名乗らない)先に下・次がお母さん、最後に私だったわね」と答えた時の母の言葉に顔色が変わった。

 

「だってあなたは相談しようとしても”忙しい”って言って話を聞いてくれなかったんじゃない.。だから親戚の覚えが悪いのよ」

 

いったいこれ、何の関係があるんだ?親戚の相談ごとを何で当時の私↓が聞くんだ?

 

ちなみにこの間違いが起きていたのは私が中学生~高校生の時。父が単身赴任をしたり、父と下の関係が最悪で、進路は自分で決めろ(の割にはあれこれ言ってきたけど)と言われて、頭の中は暗中模索だった頃だ。

追記する。ちゃんと私を指名してかけてくれた伯母がいる。伯母は私が出ても間違えることはなかった。大腸がんでストーマを付けた伯母は、私に「あんたに押し付けるわけじゃないけど、医療をやりたいと思ったんだったら、その道に行きなさい。手に職を持ちなさい」と再入院の前日に言葉をかけてくれた。「この話はパパとママにいう必要はないよ。あんたに向いてるよ。匂いを気にしなかったのはあんただけだよ」伯母の遺言になってしまった言葉を伝えたのは伯母の通夜の席でだった。

 

母の言い分に対して、喉まで出かかった言葉を父の前で言うのも憚られるし、母に言えばまた、怒り出すのが目に見えているが、心の中で叫んでいた。

 

「お母さんは確か、お姉ちゃんは自分で道を切り開けるから大丈夫。ママは下を助けてあげなきゃいけないのよって言ったわよね。そういう娘がどこの隙間で自分のことだけじゃないことも依頼されて、話をいつ、聞けたと思う?」

 

昭和50年代後半~の話だが、父の給料日(25日だった)通帳2冊とキャッシュカードを手渡されて、「お給料はこの銀行で〇万円おろして、その足で別の銀行(住宅ローンの返済)に△万円入れて、残りは持って帰ってきて」と命じられる女子高生はそう、いないだろう。

確かに高校の帰り道に行けばいいが「18時まで」というリミットがある。授業が終わって最寄り駅まで直帰して17時を過ぎる。駅の南口でおろし、階段を上がって北口の銀行に入れる生活は、落としちゃいけないものを預かった重圧と戦う日でもあった。

 

しかも(意外と)がり勉だったのでリーズナブルに勉強をするために、若い方は知らないだろう、「旺文社ラジオ大学受験講座」を聞くために、帰宅して即、その時間に合わせてテキストを構え、録音してやるのが、私と仲のいい友人との翌日の話題であったのだ。それくらい、勉強の楽しみがあってもいいだろうに…。

 

 

もう1つは母が気づいていないので敢えて言わなかったけれど(蒸し返すこともない)一番最初に燃え尽き症候群とわれて入院する時の異変に対しての、私の対応に激怒して電話を切ったということがあった。

その頃は病院で正社員で仕事をし、結婚をしていたので(下は就職で地方に配属された年)日曜日の10時に支離滅裂なことを言いだしたので「そこまで苦しんでいるのだったら、月曜日に病院に行った方がいいんじゃないの?」と進言すると、「あんたは思いやりがない。病院の職員って嫌な人よね!」と電話を切ったのだ。

その後かけ直し、父に変わってもらい、「心療内科に明日、連れて行く」と父と話をして、翌日入院をした。

 

母の主治医は周りの人が母の言い分を”漏らさず”聞き取ってあげることが一番の薬だと仰る。

それほどまでに私は冷たかったのだろうか?父よりは気づきが多いけれど、自分勝手な娘だと思っていたのだ。

冷静に判断し、より母の病態に合った医療機関探しをしていても、結局は母の行きたい医療機関で老夫婦は今でもよしとしている。

私と下はそれをよしとしていないのだが、下が言うには「飽きるまで行かせるしかない」とのこと。

 

 

段々と本音を明かしてくる母は確か、私に去年こう話したのだ。

「そんなに仕事をしなきゃダメなの?」

「子供は私立理系大学生だからね。お金がかかるの」

「ふ~ん。私はそういう苦労は分からないわ。身体が大事でしょう?」

 

だからパートだし、今は少し勤務時間を減らしたんだけど?

 

その話の締めくくりの母の言葉はエンドレスで帰途の雨の道に鳴る。

 

「私がこうなってからのあなたは好きよ。頼りにしてるわ」

 

はい…穏やかに過ごさせてください。実は私自身も相当、参っているのですよ、お母さん。

強く生きろと言われた言葉に応えるべく、必死に生き、病気から這い上がって復職までたどり着いたんです。

冷たいと言われる娘は確かに、結論を出すのが早いかもしれませんが、迷っている暇があるなら即、自分の信頼する医者に家族を導くというミッションをあの大病の時から行うようにしたんです。

 

治ってきたから言える言葉なのだろう。しかもケアマネさんの前での出来事だった。