***心模様***

後期高齢者になった両親の老々介護・それを支えていくこどもたちのお話が主です。スピンオフとして私の趣味の写真などを載せていきます。

【Another Story】生き抜けと言ってくれた人たちに感謝する日々。

10年以上前。1年間に2人のママ友を失った。就学前のお子さんたちとはそれぞれ子供を介しての繋がりがあり、今でも最後にあった元気な姿を頭の中に残している。それが夏。そして私自身も2回の大病をしたのも夏だった。

 

1回目に倒れた日は、ママ友でもあり、私には年の近い姪(姻戚)の通夜の前日だった。

鴨居にぶら下げてあった夫と私の礼服・子供の黒い服。でもそれを着て通夜に行ったのは夫だけだ。

私は治療のために、1本の点滴を2時間かけて落とすという急性期治療を3日間受けることになり、子供を同伴していた。一人で歩ける状態ではない。夫が私の病状を話ができない理由はいくつかあった。

・親戚の体裁で集まらなくてはならない。

・何かを信じれば病気は治ると言い張る人たちがそこにいる。

だから彼なりの対応で私への雑音を避けて、一連の式に1人で出かけて行った。

「今は可能性を信じろ!」

実際それは諦めにも近かった。担ぎ込まれた大学病院でそう、教授から言われていたけれど、「やるだけはやりましょう」に従った。あの時諦めていたら恐らく、こうやって文字を打ち込むこともできなかっただろう。

PCは病気の後で覚えたもので、家から出ることがほとんどできなかった当時の私を支えてくれた方が教えてくれた。時間ができた私は当時、CGIのカスタマイズをしてサイトを運営することに生きがいを見つけていた。写真も病気の後に夫がデジカメを買ってくれたので、写真併用のサイトを10年近く運営していた。

 

それから8年くらい経って別の病気が見つかった。この時はある意味偶然ではあるが、やはり大学病院を紹介されて、手術をすることになった。その結論を報せたのは夫とPCを教えてくれた友人で、電話をかけたのが先に逝ってしまったママ友の元住んでいた家の近くで、夕方の夏空がこんなに辛いものだったのかと思った。最初の病気も担ぎ込まれた病院で見たのはこの空だったから。

 

時期を見て手術は早めに入れて頂き、その後の治療を行っている間はパートをしていた。治療費は微々たるパート代で賄えるものではない。貯金を崩して医療費を支払った。そんな間に子供が大学進学の準備をするようになり、思い切って復職をして現在に至る。

 

夕方の夏空がいつもかなしみに包まれているわけではない。

 

そう教えてくれた、支えてくれた友人も生死を分けるような大病をして、一命をとりとめ、今は自分の人生を自由に生きるようにしたそうだ。

 

年齢が年齢だからね。やりたいことをやって本望。でもあなたはまだ、やるべきことはいっぱいあるよ。

 

子供との接し方を教えてくれた人たち。そして今後の子供との距離感をうまくとれと教えてくれる人たち。

親の介護はまだ始まったばかりともいえる。それは私が今、生きる方向に導かれたからできることなんだ。

 


Mark Ronson - Uptown Funk ft. Bruno Mars